「動作分析とは何か」と問われることは多いが、
その問いに対して、私は今も明確な定義を持っていない。
ただ少なくとも、
現在の私にとっての動作分析は
動作を見て原因を当てにいく作業ではない。
評価の中で仮定した
身体の構造的個性や前提条件が、
実際の動作という状況下で
どのような力学的ストレスとして現れているのか。
それを確認するための工程、
あるいは答え合わせの場として
動作分析を位置づけている。
動作分析はなぜ必要になるのか
臨床では、
静的評価や局所所見だけでは
症状を説明しきれない場面に多く遭遇する。
- 構造的な問題はあるが症状は出ていない
- 可動域や筋力に大きな左右差はない
- 局所には明確な異常所見が見当たらない
それでも、
日常動作の中で痛みや違和感は繰り返し出現する。
このとき初めて、
「動作」という状況依存的な負荷条件を考慮しなければ、
説明が閉じないことに気づく。
動作分析は、
評価を補足する技術ではなく、
評価仮説を成立させるために必要になる工程
として立ち上がってくる。
教科書的な動作分析から始まった
学生時代から若手の頃にかけて、
私の動作分析は非常に教科書的だった。
- 踵接地はどうなっているか
- 踵骨は回内しているか、回外しているか
- 脛骨や骨盤のアライメントはどうか
- 関節ごとの運動が正常パターンから外れていないか
いわば、
パーツ単位のミクロな観察を積み重ねることで
動作全体を理解しようとしていた。
この視点が無意味だったとは思っていない。
むしろ、
この段階がなければ
今の分析には辿り着けなかったとも感じている。
それだけでは足りないと感じた理由
臨床経験を重ねる中で、
教科書通りに観察しても
説明が成立しないケースが増えていった。
同じような踵接地、
同じような骨盤の動きに見えても、
- 症状が出る人と出ない人がいる
- 痛みの部位やタイミングが異なる
- 介入への反応が大きく分かれる
「どこが動いているか」だけでは、
なぜ症状が生じたのかを
説明しきれない感覚が残った。
この違和感が、
動作分析の見方を変えるきっかけになった。
現在の動作分析の捉え方
現在は、
まず立位や構造因子から
その人の身体的な個性を仮定する。
- どこに可動性があり、どこに制限があるか
- ストレスを受けやすい部位はどこか
- 力を逃がしやすい構造か、集中しやすい構造か
その前提条件を頭に入れた上で、
- 歩行
- 立ち上がり
- 着座
といった日常動作を観察する。
このとき見ているのは、
関節角度そのものよりも、
力学的ストレスがどこに集まり、どこを通過しているか
という全体像であることが多い。
木を見て森を見ず、ではなく、
木も見つつ、森も同時に見る
という感覚に近い。
動作分析は評価の後段に置かれる ― 仮説の答え合わせとして
この意味で、
動作分析は評価の「後段」に置かれる。
動作を見てから原因を探すのではなく、
すでに立てた仮説が
動作という負荷条件下で
無理なく成立しているかを確認する。
ここでの「答え合わせ」は、
- 正解か不正解かを決めること
- 動作パターンを分類すること
ではない。
- 仮説同士が矛盾していないか
- ストレス集中の説明が一本につながるか
- 別の仮説の方が自然ではないか
そうした思考の整合性を確かめる工程として
動作分析を使っている。
この動作分析も仮説にすぎない
ここまで書いてきた考え方も、
完成形だとは思っていない。
踵接地や関節単位の分析が
再び前景に出てくる場面もあるだろうし、
今とは違う見方が必要になる症例にも
必ず出会うはずである。
動作分析は、
固定された技術ではなく、
臨床経験とともに更新され続ける思考様式
なのだと思っている。
この「私の動作分析」も、
今後変わる可能性を含んだ
一つの仮説にすぎない。
編集後記
頭の整理、アウトプットにブログを始めましたが、読み返すと恥ずかしい。
「お前が何を言っているのだ」
「どの立場から話している」
という昔懐かしき、医療現場の先輩の顔が思い浮かびます。
しかし、今の私だからこそ伝えたい。伝えられることもあると信じて。
これからも投稿したいと思います。
最後まで読んでくださったあなたへ。
ありがとうございます。


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