突然始まった学生指導補助
2011年、入職1年目の夏。
私は4年生の臨床実習に、指導補助として関わることになりました。
当時は今のような法令整備はなく、
・何年目以上が担当するという決まりはない
・病院実習は徒弟制度的で、経験則が重視される
そんな時代でした。
卒業したばかりで右も左も分からないまま、学生時代に教わった通りにレポートを添削する。
それが、当時の私にできる精一杯でした。
教科書と異なる指導への違和感
その実習で、今でも強く記憶に残っている出来事があります。
実習担当の主任から学生に対して
MMTで筋持久力を測りなさい
というフィードバックが出されていました。
MMTは徒手筋力検査法であり、最大筋力を段階評価する検査です。
マニュアル通りに行うことで、誰が行っても同じ結果が得られるように設計されています。
教科書に書かれていない評価を、
しかも国家試験を控えた学生に教える必要があるのだろうか。
臨床に出てから、現場独自の工夫や応用を学ぶことは理解できます。
しかし、学生実習の段階で
教科書と異なることを、理由も曖昧なまま教えること
には強い違和感がありました。
結果として、その学生は
何が間違っていたのかも理解できないままC判定で大学に戻りました。
正解のある課題と、正解のない課題
この経験から、今の私の教育観の軸が形作られたように思います。
それは
正解のある課題と、正解のない課題を混在させない
ということです。
教科書、検査、評価基準。
これらは正解のある課題です。
正解があるものは、間違えたまま覚えさせない。
共通言語として使える状態にしておく。
それは学生を守ることでもあります。
一方で
臨床で何を感じたか
患者と向き合って何を考えたか
こうしたものは正解のない課題です。
正解のない課題に対して、経験則でマウントを取る必要はありません。
そう考える人もいるけれど、あなたはどう感じますか。
その対話こそが、学びになるはずです。
荒探し文化と、医療の目的
学生時代、実習報告会は荒探しの場でした。
質問されないためのレポート作成が、暗黙の評価基準になっていたように思います。
本来、実習は
学校では学べない現場を見て
学生自身が考え
指導者と意見交換をする場のはずです。
誰が見ても分かる客観的事実は大切です。
しかし、それだけを武器に他者を否定する教育は
医療が何のために発展してきたのか
という視点を失わせてしまいます。
患者ファーストとは、患者が神様という意味ではありません。
人を救うために医療が存在する
その原点に立ち返ることだと、私は考えています。
正しさが否定された経験
当時の私はMMTの件について、主任や上司に意見を伝えました。
間違ったまま教えるのは学生に申し訳ない。
この病院が外からどう見られるかも考えてほしい。
結果は、穏便に済ませたい、という一言でした。
途中から私は相談されなくなりました。
大学の教員からは後日、感謝の言葉をいただきましたが
私の中に残ったのは虚しさでした。
正しいことを、正しいと言う難しさ。
そして、間違いを認めないプライドの醜さ。
この時、初めて実感しました。
新卒教育と、自分自身への反省
その後、新卒教育にも関わるようになりました。
振り返ると、このブログを書くまでの私は
出来ていない部分ばかりを見ていたと思います。
患者様を取り巻く状況を把握するために行う「統合と解釈」
本来、多角的な視点で患者様を診るための思考過程で使われます。

国際障害分類(ICIDH)から国際生活機能分類(ICF)へ代わりネガティブなことばかりに
注目せず、ポジティブなことにも目を向けようという考えです。
しかし、学生指導や新人指導は個性をみず、
「出来ないこと」に目を向けていましたと思います。
本質の理解が薄れ、経験と共に
自分は間違っていないと思い込んでいました。
今なら、当時の自分にこう問いかけます。
何のために理学療法士になったのか。
問題点を追い続けるためだったのか。
それとも、人のために生きたいと思ったからではなかったか。
教育はマインドであり、行動である
3年目以降、私は先輩と共に現場の制度を見直しました。
掃除、受付、物理療法、シフト。
役職者以外は、すべて平等にしました。
反発はありませんでした。
結果として、
・患者を待たせない
・患者を選ばない
・クレーム構造が改善する
現場は確実に変わりました。
教育とは、言葉だけでなく
環境を整えることでもあると学びました。
教育者として最低限守りたいマインド
今、私が大切にしているのは次のことです。
・出来ていることに目を向ける
・出来ないことを人格のせいにしない
・正解のある課題は、事実として正しく伝える
・正解のない課題は、否定せず未来に託す
・学生も新人も、未熟で当たり前
教育とは
すべてを今、完成させることではありません。
答えの出ない問いを持ったまま、進めるようにすることも
教育の一つだと思っています。
学生へ
正解のあることは、正しく身につけてほしい。
正解のない問いは、感受性を失わずに持ち続けてほしい。
若手PTへ
問題点だけを追いかけていないか、立ち止まってほしい。
何のために理学療法士になったのか、時々思い出してほしい。
教育に関わる立場の方へ
決めるべき制度と、決めなくてよい余白を分けてほしい。
教育が患者にどう影響するのか、もう一度考えてみてほしい。


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